2008年。
一人の男が馬主の資格を収得する。
無類の馬好きだった男は物見遊山のような気持ちで北海道各地の牧場を見て回り最後にピュアスノーファームを訪れた。
駆け回る当歳馬を眺めていた男は何気なく一頭の牝馬に目を向けた。理由は分からないが、何か気になったのだ。
スタッフから血統表を渡された男は思わず感嘆の息を漏らした。
馬主として新人でも年季の入った競馬ファンだった男にとって母がマックスビューティの半妹で母父父ガーサントという牝系はとても魅力的だった。
「雨雨降れ降れガーサント」と馬券を握り締めた若い頃の記憶が思い起こされる。
是非とも欲しいと牧場にスタッフに申し出たが提示された額はなんと2億700万。
世は空前の競馬ブーム。素質馬にはセリで10億以上の値がつく事も珍しくない。
バースファンタジーの08は競走馬としてはさほど期待されていない幼駒であったが(男にとっては不運にも)母父はともかく血統の良さから繁殖牝馬としての価値を見込まれて2億という高値を提示されてしまったのだ。
払えなくは、なかった。
男の当初の予定では1000万前後の馬を2、3頭購入し、それを数年続けるつもりであったから、ギリギリ足りる。
だが、一ファンであるが長年競馬を見てきた男である。1勝の重みというものはよく分かっている。
応援していた馬が未勝利のまま引退した事は一度や二度ではない。購入費用や毎月の預託費を回収出来る可能性は0に近い。
男の理性がここは諦めろと警告する。道楽に注ぎ込んでいい額ではないと。
それが正しいと理解しながらも男はどうしようもなくこの幼駒に惹かれていた。
散々悩んだ末に男は予算の全てをはたいて幼駒を購入した。これを逃がせば絶対に後悔するという予感があったから。
半月ほど悩んでカセロッティと名付けた牝馬はサウスヴィグラスとダート戦国時代を戦い抜いた高橋祥泰調教師の厩舎に入厩させる事が叶った。
そしてダート適性の若い牝馬なら彼が良いとエージェントから紹介されたのは和田竜二騎手。
この陣容でカセロッティを支えて戦っていく事になる。
ガーサントの血を引く二冠馬が現れて種牡馬としても成功するなんて都合の良い話が起きる筈もない。この馬が活躍する事で若いファンにもガーサントの事を知ってもらえたら。そんな淡い夢想を思い描いた。
なお競馬関係者からの評価は芳しくなかった。
見返したいと思いながらも弱気が首をもたげる。
一般的に新馬戦、未勝利戦を勝ち抜けるのは世代全体の僅か3割と言われている。
加えてその中の多くは有名なオーナーや大手のクラブの馬である。新人馬主の馬が勝ち上れる確率など……勝てない馬の末路は悲惨である。牝馬なら未勝利でも繁殖牝馬の道が残されているが……
悪い想像ばかり浮かび胃を痛める男だったが、そんな事などどこ吹く風と言わんばかりにカセロッティは新馬戦をあっさりと勝利。
更に牡馬もいるヤマボウシ賞を大差勝ちすると次走のエーデルワイス賞も快勝。
地方の交流重賞とはいえ初めて買った馬が重賞勝利(副賞としてキングカメハメハの種付け権)
それが自分の好きな血統なのだから男は狂喜乱舞した。
競馬ファン「今勝った芦毛馬はラムタラ産駒ですか。母父はヨドヒーロー……ヨドヒーロー!?」
母父ヨドヒーローで勝ち上がった馬は他に僅か2頭なのだから驚くのも当然だろう。
そのうち活躍した方でさえ18戦4勝のシンコウスピリット(主な勝ち鞍が現在でいう3勝クラスのフリーウェイS)なのだから競馬に詳しい人間ほどこの結果に驚天動地だ。
改めて見ても現代競馬からすると化石のような血統であった(カセロッティは3代前の先祖がガーサントであるが、たとえば同期のアドマイヤセプターの場合は5代前の先祖がガーサントだといえば古さが伝わるだろうか)
全日本2歳優駿は5着だったが1着とのタイム差はそこまでなく来年に期待出来るレース内容。
そして3歳になったカセロッティは伏竜ステークス2着、兵庫チャンピオンシップ3着、関東オークス2着と、後一歩が届かない惜しいレースが続く。
無論世代の上位である事は疑いようがないが、だからこそ欲ともどかしさが込み上げる。
前走の結果を鑑みてジャパンダートダービーを回避して出走したジュライステークスでは最軽量の斤量50kgである事も手伝い、9馬身差で後続を完封。
斤量が増加した阿蘇ステークスでも2着を確保して実力を証明すると、クイーン賞で重賞2勝目を上げる。
4歳になったカセロッティは最も重い斤量を背負ったTCK女王盃も1着。
初の中央GⅠフェブラリーステークスではベルシャザール、トランセンド、スマートファルコン、フリオーソといったダートの強豪に次ぐ5着。
エスポワールシチーやマコトスパルビエロ、セイクリムズンには先着しており「カセロッティがGⅠを勝つ姿を見たい」という男の願いは決して夢物語ではなかった。
ただ、以降は掲示板を外したのは一度だけという堅実さを見せるも未勝利で4歳を終える(他の馬主からは孝行娘だと羨ましがられたが)
ここで男は一つの決断を迫られる。すなわち、現役続行か繁殖入りか。
カセロッティはダートの牝馬限定とはいえ重賞3勝。繁殖牝馬としての先行きは安泰であり、馬主席で引退後に買いたいという話になった事もある。
翻って現役を続行しても勝てる保証はない。生物である以上、カセロッティにも確実に衰えは訪れる。それならば潔く引退させて夢を産駒に託すのも十分ありな選択肢だ。
種牡馬と違って繁殖牝馬が残せる子供の数は非常に少ないが故に一年の違いは馬鹿に出来ない。
もう一年あれば勝てそうな手応えはある。さりとて引き際を見誤ってボロボロになった馬も無数に見てきた。
カセロッティを購入するか否か悩んだ時と同じくらいの苦悩の末に男が下した決断は現役続行。
過去のレース映像を見返していて自然とそう決めた。
なんという事はない。自分はカセロッティが走る姿を見るのが好きだったという当たり前の事実に気付いたのだ。
そして5歳。泣いても笑ってもこの年で引退させると決めた最後の一年。
競馬の神は男に微笑んだ。
厳しい坂路調教により鍛え上げられた身体能力。多くのレースに出走する事で培われた経験。そして騎手と育まれた絆。
それらが結実の時を迎える。
声にならない叫びが川崎競馬場に木霊した。
正直な所、下手なGⅡ、GⅢの方が豪華に思えるくらい手薄なメンバーだったが勝ちは勝ち。
男は祝勝会で前後不覚になるまで酒を飲み翌日には二日酔いに苦しんだが、そうなった理由が理由だけに思わずにやけてしまい妻に気味悪がられた。
その後、カセロッティはフェブラリーS、かしわ記念、帝王賞、サマーチャンピオンと4戦連続2着。
一つ勝つだけでも大変なのが重賞レースである。現状でも既に十分幸運だと言えるだろう。
だが……
最初は勝ち上がってくれるだけでいいと思っていた。
しかしカセロッティは男の期待を遥かに越えて頑張り、JpnⅠすら勝利してみせた。
そうなると男も高望みしてしまう。すなわち、ホクトベガ以来の牝馬による最優秀ダート馬。
カセロッティに男の願いは分からないだろう。言葉も通じない。
――しかし、彼女は自分が先頭で駆け抜ければ皆が喜ぶという事は知っていた。
1年でGⅠ級を4勝。更に連対を外したのは一度だけ。
この結果により年末には最優秀ダート馬に選出。
授賞式で男は周囲の目も気にせず号泣。しかしそれを揶揄する者は誰もいなかった。
カセロッティの引退後について、男は当初繁殖牝馬セールに出すつもりだった。その方がカセロッティの為になるだろうと。
しかしカセロッティの走りに心底魅了されてしまった男は自分が面倒を見たいという欲求に抗えなかった。
幸いにもカセロッティの獲得賞金のお陰で金銭面の不安はない。彼女が生まれたピュアスノーファームも預託を快諾してくれた。
そして数年後、彼女の子供達による新たな夢が走り出す──
競走成績
2歳
新馬戦 1着
ヤマボウシ賞 1着
エーデルワイス賞 1着
全日本2歳優駿 5着
3歳
伏竜S 2着
兵庫CS 3着
関東オークス 2着
ジュライS 1着
阿蘇S 2着
レディスプレリュード 2着
クイーン賞 1着
4歳
TCK女王盃 1着
フェブラリーS 5着
マーチS 6着
さきたま杯 3着
帝王賞 3着
ブリーダーズGC 2着
日本テレビ盃 2着
JBCレディスCL 2着
東京大賞典 5着
5歳
川崎記念 1着
フェブラリーS 2着
かしわ記念 2着
帝王賞 2着
サマーチャンピオン 2着
南部杯 1着
JBCクラシック 4着
チャンピオンズC 1着
東京大賞典 1着
(メモ帳ではきっちり揃えたのにブログに張り付けるとズレるのはなんなんだろう……)
勝ち鞍
チャンピオンズC、東京大賞典、南部杯、川崎記念、TCK女王盃、クイーン賞、エーデルワイス賞
GⅢ勝ち鞍:TCK女王盃、クイーン賞、エーデルワイス賞
シンザン競馬ファン「なかなか頑張ってる牝馬ですね」
GⅡ勝ち鞍:なし
シンザン競馬ファン「でも格上牝馬や牡馬相手には力不足ですか……」
GⅠ勝ち鞍:チャンピオンズC、東京大賞典、南部杯、川崎記念
シンザン競馬ファン「???????」