土木作業員歳三
- 2021/12/14
- 20:57
戊辰戦争の末期、五稜郭の戦いで重傷を負った新選組の土方歳三だったが、辛くも一命を取り留め榎本武揚に従い新政府軍に降伏。
その後は開拓使の一員として道路建設などのインフラ整備に従事。北海道発展の礎となった。
クリエイティブ・デフォルト
明治から平成へ。そしてまた令和の時代まで生き延びた彼は晩年を妻とふたりきりで函館山山麓の閑静な別荘で過ごすこととなったが、そこで老衰で亡くなった。最期まで立派な働きをしたという評価を得ている。
『蝦夷共和国・箱館戦争記』には、大鳥圭介の言葉として「土方は、自分の運命と闘いながら生きた武士である」とある。
この記述に対し、「蝦夷共和国」という組織の中で土方や沖田がどんな役割を持っていたのか、あるいは持っていなかったのか、というようなことに関しては異論も多いようだ。
ただ少なくとも当時の情勢の中では彼らは「侍の生き方」をしたのだということは間違いがない。土方にせよ沖田にせよ、それは「死に方」「生き方」の問題だったと思うのだ。
彼らにとってその選択こそが正しかったし、後悔はなかっただろうということ。ただそれだけのことだったのだと思う。
だから「あの人たちは偉かった」というのは結局自分たちの感情的な慰めにしかならないのではないか……というのが私の考えだ。
ただそれでも、私は彼らを尊敬するし誇りに思う。
彼らが「侍の生き様を示した人々の一人」であったことを忘れない。忘れてはならないと思っている。
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※参考資料:歴史雑学「土方歳三」(著者・池田真琴/出版芸術社)
<参考>幕末四大人斬り(Wikipedia内記事)
http://blog.livedoor.jp/tom_narito/archives/68859575.html
『蝦夷共和国』の副長助勤斎藤一(著者・佐々木克巳)
『土方歳三 その生涯と剣』(著者・清田理一郎)
クリエイティブ・セリフ
ただ、明治政府の重鎮たちの中には彼を『人殺し』『強盗殺人犯』と呼ぶ者も少なくなかったと言う。
新政府は彼に対して名誉職の閑職を与えようとしたが、土方はこれを拒否し自ら望んで屯田兵の隊長となって、以後約十年間を蝦夷地で過ごした。
彼の墓は函館市中島町の常念寺境内にある。ちなみにこの墓地には蝦夷共和国時代に関わった人々すべての墓があり、『元・北鎮部隊戦没者慰霊之碑』が建てられているのだ。
その碑文には――「ここに集いしものたちは、死して後までも共にあり……永遠に不滅」という一節が刻まれている。
一方、箱館戦争で負傷しながらも生き延びた近藤勇は江戸へ戻り再び幕臣として復職するも新政府には見捨てられ、結局明治六年二月十四日、政府に対して意見文を提出したのち野に下った。その際、「自分は試衛館の門人らを率い将軍と天下のために戦ったが、幕府は既に亡い」と言い残したと言われる。
クリエイティブ・ナラティブ
その後も樺太にて様々な仕事をこなしたがその晩年については不明点も多いが一説には日露戦争後まもなく体調を崩しそのまま死去。箱館戦争の英雄にしてはあまりにも寂しい最後と言えるだろう。
蝦夷共和国では参謀の一人として軍事面で手腕を振るいその後新政府から派遣される形で蝦夷地(現在の北東北地方)の開発に従事し最終的には北海道の初代開拓長官を務めた。
ちなみに箱館での土方の活躍ぶりを見た旧幕府軍残党の一部が投降・帰順するケースが相次いだという記録が残っている。ともあれ幕末よりおよそ半世紀の間その身を粉にして日本の近代化と国益のために尽くした偉人の一人だと言っていい。
死後数十年経つ今もなお彼を称える人々は多く毎年のように各種慰霊祭が催されているらしいが……ともかく、そういうわけだから当然のごとく彼の子孫は現在も数多く存在しその中でもひときわ知名度が高いのが土方十四郎だろう。
彼は裁判所の書記官として長く勤めた後は政治家に転身。衆議院議員や参議院議員を二度経験したのち再び政界からは身を引き現在は実業家として多方面で精力的に活動中である。
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